
「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」
「行けアクシズ。忌まわしき記憶と共に」とは本当は誰の言葉であるか?とは以前も思った事だった。
落としたいアクシズのひとつやふたつ。きっと誰もがありはしないか?
あったとしても誰もそんな事はしない。現実の狭い意味での英雄とは 大概は殺戮者かサイコパスではないだろうか?大概の凡庸な人間は、それを直接手を下すのではなく、画面の向こう側の者たちに願望を託す事になる。
ここに描かれる英雄は、本心ではとても個人的な心情でもって戦争を行なっている。彼は英雄か?本人にとっては表向きの大義よりも本当は重要な、ごくごく個人的な、個人と個人の因縁と情念とでこんな闘いが行われるなど 周りの人間はきっとたまったものではなかろうと思う。
死者の魂にこだわる指導者などろくなものではない。
死者に魂を引きずられた2人の男の決着の為に、多くの人が犠牲になるというのか?
かつて僕が最も憧れた戦士の決着がこんな形で行われてしまって良いのか?シャア!そんなセリフを画面の中に入って言ってみたくなる。νガンダムとは言わない。せめてリ・ガズィに乗ってシャアに説教してやりたくなってきた 。(νガンダムと百式は僕が一番好きなモビルスーツだ。しかしνガンダムはアムロが乗ってこそのνガンダムである。)
ニュータイプとして覚醒した人間は優しさに目覚め、より互いを理解し合って生きていく事が出来るという者がいる。いや、それは甘い-という者とが互いに殺し合う。それを甘いという人間は現実社会ではきっと「お花畑」という言葉を好んで使いたがる人間であろうと思われる。僕はどうやらそういう人間が嫌いだ。理想主義者の方もまた相手と信じ合える事を思いながら異なる敵と殺し合っているわけでありそれもまた矛盾である。
富野氏の描くストーリーはリアルロボットと呼ばれるアニメの世界でとことん闘いの無益さや哀しさを描いているように思えてならない事がある。しまいにはガンダム批判とも受け取れ兼ねないように感じてしまうくらいに。
そんな この物語の混沌を、しかし僕は愛してしまっているようです。
あのサイコフレームが共振する描写。アクシズが地球から離れていく事との関連性について、最初にこれを見た10代の僕はよく飲み込めなかった。もうかれこれ10回近く見返して、やっと、なんとなく、相当な力技であるが、人間の革新をこの作者は信じたいのだ-というふうに受け取るようになりました。
大好きだったシャア・アズナブルがまるで子どものような告白をする一方で、敵味方なく隕石を止めようと無謀な協力を行なう姿とが、尚一層カオスで、痛々しくて、しかしそこに共にいたいという気持ちを呼び覚ます熱いものもまた迫ってくるのを感じました。
サイコフレームの力とは テレビの画面を超えてまで力を発揮するらしい。
エンディングはTMネットワーク「BEYOND THE TIME」。
エンドクレジットの画面の最後は何故か真っ暗に。
やがて 沈黙。
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Posted by
にいさん
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2015年10月13日
00:56