
Netflixの海外ドラマ『アドレセンス』いま世界的に話題の作品

イギリス発のNetflixドラマ『アドレセンス』ネタバレは抑え目に書きますが、随所に色々と内容に触れるかもしれません。真っさらな状態から驚きを味わいたい方は、こちらのblogを読む前に是非ともドラマ視聴をお勧めします。
これ、ワンショットどうやって撮影しているのか?
DJI Ronin 4Dの超絶カメラワーク。
これは、とにかく見てください。4話すべてが全編ワンショット撮影。繋いで編集したわけでもなく、1話分丸ごと本当にワンカット撮影というから驚くしかありません。
そんな撮影技術以上に掴まれることになる衝撃的な展開が冒頭から。朝食前の家族は、最後もまた、朝食を食べられないままに、悲しみに暮れてしまう。朝の家族の食卓を、この家族は遂に。
それは決して特殊な環境ではなかった。異常な凶悪な殺人鬼などではない。どこにでもいそうな一見幸せそうな家族のもとで育った少年の中にも、その「暴力」は宿っていた(「悪魔と天使の間に」そんな言葉が頭の中に流れ込んでくる)その「男性性」に有害さが宿る時に凶行は起きた。男性として生きてきた私とそれほど遠いとは思えぬ地続きのドラマの先に、その悲劇は在った。その事が、恐ろしく思えてならない。身の内なる男性性を問い直す事への怯え。もしかしたら、私が誰かを傷付けていた(いる)かもしれない可能性。
それは「少年の中に潜む」という捉え方よりも、男性が社会に出て、年齢に関わりなく備えているものに対して、そのムラの中で意味を「自分が納得出来るものに書き換えて」あるやつとないやつ。有能と不能。そこにカーストを生じさせ、その階層故の強迫観念、随分と迷惑で捻れた(自然と備わったものではない、後発的に与えられたもの、影響を受けたものだと私は解釈している)強迫観念が、激しい暴力と精神的な幼さとを伴って、自分よりも弱いと認定した者を(ここでは女性を)屈服させようとする力になっているようにも感じるのです。
精神的な幼児性と暴力とが合わさったもの。仮にここでは「有害なる男性性」と呼ぶことにします。
暴力を振るわれた側にいた人たちは、まるで周辺に置いやられ? 加害者のドラマが進行していき、被害者の隣にいた少女は怒りを爆発させる。そばにはネット。
私たちの時代にも「我々だけで通じる言葉」は存在した。それは今はスマホやPCの中に。さっき「それは自然と備わったものではない」と言ったけれど、子どもだけの空間というのは、きっといつの世も、国や文化を超えて? 存在するのかもしれません。でも、常に影響を与えるのは、その時代における大人たちの価値観ではないでしょうか。たとえばあの父親。父から受けた仕打ちを決して自分の子どもには、と思う理性が耐えられなくなってしまって……第4話、この張り詰めたギリギリの状態の家族の会話は、もしかして今の社会の私たちの姿だろうか。父親は必死で理性を保とうとして、しかし我慢出来ずに暴発した彼を慰めフォローするのは「妻」と娘でなければならぬのか? このような光景は万国共通なのだろうか。やはり、男性の弱さを女性が受け止め、まとまる家族の有り様というのはそもそも歪ではないのか?
自分も結婚したら、そうならないと言えるか。言い切れるだろうか。
そして、これは「思春期の闇」などという単純なものではない。大人の、男性の価値観や弱さが影響を与えた、そのような社会の産み落とした悲劇だと私は受け取ります。
世界中の家族が、穏やかな朝食を食べて過ごせますように。
追記。これを、あのイーロン・マスク氏が、「白人を貶めるドラマ」などとする誤った陰謀論に基づく批判のポストに乗っかって批判を浴びた-というそんな出来事も込みで、これからこのドラマを思い出す事になりそうです。
Posted by
にいさん
at
2025年05月18日
21:39