にいさんの しらしんけん☆

島ないちゃーの劇団員。上村洋さん 通称にいさんのブログ。
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映画【FOUJITA】について。


https://haruniy.ti-da.net/e9655430.html

↑「あの頃と 似てるんだよな〜 風の匂いが 」という台詞が浮かんできた一冊。(戦争に加担したのは文学者もまた然りでした。)


(以下、ネタバレも気にして書きますが、史実に関する部分は「ズケズケ」書きます。)

以前気になりながら観逃していた映画【FOUJITA】を配信でようやく観る事が出来ました。(監督は小栗康平さん。)

正直な話し、何故この人を小栗康平さんのような映画監督が取り上げるのか?という驚きがまずありました。そんな意外性から強い興味が湧いてきたのです。

またまた正直なところ、私は藤田嗣治という人物に率直に言って良いイメージを持っていませんでした。(あくまでも歴史上の人物として語られるイメージですから、映画を観る事でそれが覆されるかもしれないという期待感もありつつ・・)

戦争協力者の画家の代表格

それが彼-藤田嗣治へのイメージでした。

果たしてそのイメージは覆ったのか?

結論から言えば、 否 です。

しかし映画としてはなかなか美しく魅力的な作品として(特に後半の疎開先の農村でのくだりは凄く面白かった・・)良く出来ていると思いました。この美しき映像には彼への好意と敬意も込められていると見て取れるとすると、個人的には複雑な苦い後味の映画でもありました。


彼はわかっていた。

それが「えそらごと」である事を。

ミッドウェイ海戦がどうなったのか、制空権を握るのはもはやどちらの国であるか、近いうち東京も危ない事だって。それでも「えそらごとが物語を作ってくれるのならそれも悪くない」と、現状を認識した上で上手に波に乗って務めを果たしていたのですから。

それは、挙国一致の戦争遂行に自ら(否定したり、それに対して煩悶したりすることなく)映画には出てこない実際の本人の「手記」での言葉を借りるならば『国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか』という認識を彼は戦後もずっと持ち続けていた事には触れておきたいと思います。

アーティストとして、「えそらごと」の中に身を置きつつ、日本の中に息づくフォークロアから自分の世界を構築していく描写はなかなか魅力的なところもありましたが(後半の狐の話しと繰り返し映される存在感のある大木が、とある作品に結実していくくだりなど)前半の享楽的なフランスでの生活での「イケてる俺」が語る『君らは世界と闘えるのか?』というイケ好かない野心家の顔と、軍人から要請される際の『我が国は芸術の方面でも勝たねばならない』とする方針とそれを複雑ながらも正当化して受け入れる彼は一見別人のようでもありつつ、本質は大して変わってないじゃないか?と思わざるを得ない。向かうベクトルに違いが感じられない。

イケてる若い頃は俺は売れなきゃならない。勝たなきゃならない。力を持たなければならない。それが次第に状況が彼に「国家の要請」として同じことを彼に命じ、歳を重ねた彼はそれを受け手として正当化して「乗りこなしていく」ようにも見えないでもなかったということ。

GHQからの追及とはまた別に、戦後に国内の知識人から上がった特権層への批判の中に彼はいたのではないか。

「高みの見物」というか、彼の場合、完全に加担したプレイヤー側でもあり。従軍画家としての任務の他ではほぼ安全な場所にいながら、むしろ「傍観者」としての態度も見せる。そして上手に波に乗っていく。もっとも彼自身は自分の仕事を誠実にこなしていたのだろうが。

しかし、一般の庶民はそんな「波」には乗る事など出来ない。

偉い軍人さんから軍服を贈られて、それを着る彼を妻が「悪趣味」と呼んだ。彼は「悪趣味でも乗ってみるものさ」と答えた。ここに彼という人間の一面が現れているような気もしました。

つまり、あの時、「戦争に加担した芸術家たち」の姿のある一面を映し出した以上の(例えば戦争と相反する何か、例えば彼にとっての正義、例えば やむにやまれぬ何か)その何かを見出すことは私には出来ませんでした。

オダギリ・ジョーさんは好きだけど、藤田嗣治については・・・




しかし彼の遺した教会の壁画は(とある部分に笑ってしまいましたが(笑))それはそれは見事な作品でした。

このような美しいものを描くことができるその手が「戦争に使われる」という事の恐ろしさを思わないわけにはいきませんでした。




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Posted by にいさん at 2020年02月24日   11:35